トップ出店者紹介 > モンゴルパン


・屋号 : モンゴルパン

・代表者氏名 : 加藤 晴久

・住所 : 兵庫県三木市吉川町貸潮

・連絡先 : halbal88@yahoo.co.jp

・WEB(HP、ブログ、FB) : ブログFB

・お店や活動紹介


・活動紹介

モンゴルパンという移動販売の店をやってますと言うとみなさん一様に

不思議な顔をされます。当たり前ですよね。まず、モンゴルパンというものが何かわかりませんよね。

モンゴルパン( 以下モンパン  )はモンゴルだけでなくアジア各地の遊牧民などに食べられている平たいパンの総称のつもりで僕は使っています。

僕は住空間に興味があり、建築を勉強しました。また、遊牧的生活にある種憧れを持っていて、移動住居であるゲルを自作したりしていました。そうこうしてるうちにモンゴル人の友人やモンゴル関係の音楽家などとつながりができ、そのひとりにパンの作り方を習いました。一方で参加していたバンドの活動の一環であちこちの野外フェスティバルに行くことが多くなりました。フェスティバルの間の生活費や交通費を少しでも補填しようと、このパンをオリジナルに発展させて、それに具をサンドして売るようになりました。オリジナルモンパンの原型はほぼ出来上がりでした。このような平たいパンは乾燥アジアの各地に似たようなものがあり、ナンやチャパティ、エイシ、ローテイ、プーリー、ピデ、などの名前で呼ばれています。それでモンパンはそれら平たい乾燥アジアのパンの代表ということにしてもらってます。

現在はパートナーと共に移動し、自分の畑でできた無農薬有機の野菜や調味料を中心に作った具材などを挟んで提供しています。あちこちの音楽イベントやマーケット、マルシェ、町おこしイベント、劇団維新派公演などにお邪魔しています。

ゆくゆくは田舎に定住して、農園で作った作物ですべての調味料を自作し、米、小麦、家なども自給自足したいです。あちこち訪れた各国の美味しいものをたべてもらったり、日本やアジアを中心に伝わる昔からの持続可能で自然に近い生活技術、染め、料理、建築、音楽、美術など衣食住のさまざまな技術などを楽しく学びながら、同じような志向の友人などとも楽しく暮らしたいと思っています。


参考:ブログ『はるばる旅日記 』モンゴルパン出店情報内 『モンゴルパンってなあに』 から


小麦がメソポタミア周辺で栽培されるようになると、すぐさま実を粉にして水を加えて焼くという元始のパンが食べられていたと考えられます。旅をする民族やさらに肥沃な土地を求めて移住する民族たち、あるいは隊商を組んで貿易に出発点する人たちは、この粉にした小麦とその種を携えて西へ東へと移動し、移住してゆきました。その土地で種をまき、定住するものもあり、さらに旅を続ける民族、人々もいたでしょう。目的地に着いたり、どこかで野営する時などは、乾いた木や動物のフンを集めて、岩の上で火を炊き、熱く焼けた石板の上で、水で溶いた小麦の生地を焼きました。そのパンを主食にして、僅かばかりの野菜と干した肉などと共に食べました。そしてこのパンはエジプト、ペルシャ、インド、チベット、モンゴルなどへと伝わって行き、さらにベーリング海を超えた民族から、今、北アメリカ大陸と呼ばれる新大陸へと伝わってゆきました。北アメリカのネイティブ達はフライブレッッドとよんでいます。さらに南へ伝えられ、今度はトウモロコシを原料に作られるようになりました。モンゴルパンはモンゴルの一部につたわるパンという意味だけではなく、この様に世界に広がった民族達の一万年の旅路を支えてきたパンの総称なのです。このパンはエジプトのエイシやインドのチャパティ、ナン、プーリー、ローテイ、パラタ、イタリアのフオカチオやピッザ、ピタ、トルコのピデなどの原型です。西に進んだパンはカマドとイーストを得てさらに発展を続け、フランスパンやドイツのパンなどに分化してゆきます。

日本は西回りのパンを明治以降食べることとなりました。おそらく東回りのこのアジアパンもきっと奈良時代には伝えられていたかもしれません。残念ながら気候の関係かお米を選んだからか、残ってはいないようです。ですが、日本人が色々なところから集まった民族のミックスだとかんがえると。シルクロードを経て半島から渡来した人々、呉の地方からやって来たひとたち、あるいはアジアをへて南の島々からきた人々の先祖乾燥アジア移動時代にこのシンプルなパンをずっと食べていたかもしれません。そうすればこれは僕たちのDNAの遥かな記憶を呼び起こす懐かしい味のするパンかもしれません。一万年の旅をしているパンなのです。焼きたてのパンにうちの畑で無農薬で育てた野菜を中心に作った具をサンドして、あつあつのホットサンドで召し上がって頂いています。